ファディスタ・津森あかね

なぜか松田美緒の話から入る。彼女のファドを初めて聴いたのは、確か22歳の頃(私でなく彼女が)。「ファドが好き!」という思いのほとばしるような歌唱だった。あれほど楽しそうにファドを唄う人を私は他に知らない。当り前のことのようだが、松田美緒がファドを唄い始めたのは、ファドが好きだからである。
では津森あかねはどうか。本人から聞いた話によれば、ファドとの出会いは、ある休日の昼下がり、ラジオでアマリア・ロドリゲスの歌声を偶然耳にしたその瞬間全身に戦慄が走り……といった衝撃的なものではなかったらしい。むしろ唄い込むにつれてファドへの思いを深めて行った、彼女はそんなファディスタなのである。そしてそうした道のりこそが実は彼女の持ち味を形作ってもいる、ような気がする。
ファドで表現したいものをはじめから内に持っている者は、まず自分の唄いたいように唄うだろう。一方、表現したいものが不確かな唄い手は「正しく唄う」ことから入って行くしかないにちがいない。ここで言う「正しさ」とは、メカニカルな面の、狭義の「正しさ(うまさ)」である。これは優れた歌唱の必要条件ではあっても十分条件ではない。
津森あかねのファドは実に正しい。実にうまい。それでいて、「正しさ」のみに留まりはしなかった。ファーストアルバム「フロール(flor)」を聴いていると、まず「うまい」と思い、続いて「いい」と感じる。技巧がまったく鼻につかず、曲の底から丁寧に丁寧に吸い上げられたものが素直に染み入って来る。このあたりのバランスはちょっとしたものだ。作為のなさが好もしい。
ファドを好きになったということが重要であったのは想像に難くないが、残念ながら私は彼女のそうした変貌を目の当たりにしていない。初めて聴いた時は既にどっぷりとファドに浸かっていたから。
以前このブログでこんなことを書いた。

極めて語弊のある言い方になるが、松田美緒のファドは、ファドを介して「松田美緒」を見せられている気がする。一方、津森あかねのファドは、津森あかねを介して「ファド」を聴かされている気がする。

今にして思えば、彼女のファディスタとしての道程をうまく言い当てていたのではなかろうか。偉いぞ、俺。
ファドというと、大抵の人はまずしゃがれ声と濃厚な唄い口を想像するのではないだろうか。私はその手の歌声がやや苦手なのだが、津森あかねは正反対で、声にも歌唱にもくせがない。元々の資質でもあるのだろうけれど、そうした彼女のファド歌唱は「正しさ」から入ったという経緯によるものも大きいのではないか。
そういえば私が好んで聴くのは、テレーザ・サルゲイロは言うに及ばず、くせのない声と歌唱を身上とする歌手ばかり(でもイヤシ系はダメ、といちいち注文がうるさい)。飲み会の楽しみとセットになっているとはいえ、ファド好きとは言えない私が繰り返し彼女のライブに足を運ぶ要因はそのあたりにもあるのかも知れない。私は基本的にボーカル音楽が苦手なのだ。
これからは「うまい」と「いい」を同時に生ぜしめる、あるいは逆転せしめる、そんな彼女の円熟過程を目の当たりにできたらと思う。どうやって、と言われても無論私などにわかりはしない。酒を呷りつつふんぞり返って聴く以外のことはしないし、できない。聴き手は薄情でいいのだ。