江國香織「神様のボート」

前にも書いたが、私は江國香織を「面白い作家」だと思う。作品がというよりも、作家の存在そのものが面白い。
江國香織は嫌いではない。しかし江國香織ファンは嫌いだ。正確には「私の想像する江國香織ファン」が。なにしろ知り合いに一人もいない。
一方この作家を恋愛至上主義といった括りで軽視する手合いも、何も読めていないと言っていい。作中にも、恋愛至上主義者は登場しない。
レンアイにのめり込む作中の男女の様子を、作者自身は「動物的」と語っているらしい。動物に主義もへったくれもありませんわな。生き方としていいの悪いのではなくて、のめり込んだ者の心のありよう、必然としてその果てに獲得するもの、あるいは破綻、喪失といったものを描く。賛美も批判もなく、ただ描く。江國香織はそういう作家だ。
読んだ本の話にようやく移る。

神様のボート (新潮文庫)

神様のボート (新潮文庫)

離れ離れになってしまった男との「約束」を心の支えに、その男との間にもうけた娘との放浪生活(毎年のように引っ越す)を続ける女。
日常を描いているのに生活感がまったくない。それはこの女の心のありようでもある。では女の夢に付き合わされ続ける娘の気持ちは? というのが物語のキーポイントになっている。
「愚か」と言われて当然の生き方をする女。その愚かさを批判するのはたやすい。当然作中人物達も女の生き方を支持しない。分別ある生き方をして来たのであろう老夫婦を「好もしく」描くことで対比さえしている。「恋愛はインモラルな人間の特権」などと登場人物に言わせたりもする。
江國文学の世界はどれもはかなげだ。この物語でも、穏やかなようでいて実はいびつな親子の生活は、必然的に変容して行く。
「私は恋に生きるワ」とか言ってるやつはその殆どが意地汚いだけのノータリンだろうけど、この作家の描く人物の生き方には、それとは一線を画する「本当らしさ」がある。素敵だとは思わないが本当らしいと思う。「骨まで溶けるような恋」とやらを体験できること、それはごく一握りの人にのみ与えられた特殊な能力(作中の言葉を借りるなら「特権」)だ。だったらその能力でもって突き進んでみたらいいじゃんと思う。


江國香織が好きかというと、実は嫌いではないが好きでもない。読んでいてイライラモヤモヤと落ち着かない。じゃあ何が気に入らないのかと考えても、これがよくわからんのだ。下手だともつまらないとも思わなくて、でも何か引っ掛かる。なんだこれ。
この作家の作品世界には独特の美しさがあるが、私には必ずしも心地よくない。むしろ得体の知れない液体のプールに放り込まれたような頼りない感覚にさせられる。分別を捨て去ることへの恐怖だろうか。実はこの作家は、自分の作品に「うっとり」読み入ることを読者に期待してはいないのではないかとも思う。
「自分勝手」「分別がない」「ウジウジするな」といったネットに溢れる江國文学への批判は、どれも本質を突いてはいない。これも違う、これも違うとチェックを入れて行くと何も残らない。イライラの正体はわからないままだ。ウガーッ!