よろしかったでしょうか考

とにかくむかつくのである。一体なぜこんなにもむかつくのか整理してみたくなり、ネット上の意見をいくつか読んでみた。

客が不愉快になるのは店員が許可を求める場面で、確認を求めることになるからだ。
http://www.indierom.com/dengei/dailylife/kimuchi/yorosi.htm

これは一部当たっているように思う。
「1万円(のお預かり)でよろしかったでしょうか。」
本来なら「1万円で会計してもよいか」を問う場面なのに、意味が変わってしまっている。
「1万円で会計しちまうぞ釣り銭細かくなるぞいいのかコラ。」

丁寧な言い方のようで、実は先に勝手に決められてしまっている(ことへの不快感)
http://kotonoha.main.jp/2004/12/05yoroshikatta.html

「(レストランで)禁煙席でよろしかったでしょうか。」
などはこれに当たる。先回りされる不快感は確かに大きい。


ではこれはどうか。
「ナタ・デ・ココと八海山、ご注文は以上でよろしかったでしょうか。」
これは「確認」である。勝手に決められてもいない。しかし不愉快だ。少なくとも私には不愉快だ。
時制がおかしいというのは誰でもわかる。だが「文法上の誤り」それ自体が不快感をもたらしているわけではないだろう。


なんでも疑問形にして話す「半疑問形」や、「〜じゃないですかぁ」といった話し方が取り沙汰されるようになって久しい。これらは「この表現で理解していただけるかしら」と謙遜する一方で、相槌・同意を強要してもいる。中にはこんな手合いもいる。
「私って〜お酒飲めないじゃないですかぁ〜。」
知らねえよ。初耳だよ。勝手に共通認識にするな。
「自分はこうである」「自分はこう思う」と周囲に伝えるというエネルギーのいる手続きを、あたかも周知の事実であるかのように話すことで摩擦を起こすまいとしているのだろう。ひとことで言えば「卑屈で臆病」ということだ。卑屈な心理が強制を生み出すというのはなんだか面白い。


「よろしかったでしょうか」という言葉遣いも、これらと似通った心理からなされるのではないか。「私に落ち度があるかも知れないので確認させて下さい」という含みが感じられる。だがそれは「間違ってても責めないでね」という逃げ腰の心理であり、誠意とは似て非なるもの。それどころか、ひたすら安全地帯に留まって相手と接する態度は、「誠心誠意接客します。落ち度があれば心からお詫びします」という潔さとは対極にある。


「日本語の乱れ」として用法の誤りを指摘するのはたやすい。しかし、それだけのことならば知識を正せばいいだけのこと。ここまで世間で取り沙汰されているのは、その言い回しに潜む心理が人を不快にさせるからであろう。
「よろしかったでしょうか」という言葉遣いから、卑屈で卑劣で臆病で逃げ腰で無責任な心理を読み取り、人は(私は)怒りを覚えるのではなかろうか。殺せ。刺し殺せ。


未消化だ。何度も手を加えることになりそうだ。

追記

上記と似通った指摘発見。

もしかしたら失礼かもしれない行動をとってしまう前に、先取りして「勝手なことをしてしまおうとしてますが、そういうことをしてもよろしかったですか?」と言ってしまう
http://kotonoha.main.jp/2004/12/05yoroshikatta.html

追記2

あちこちに見られる肯定意見は大方「丁寧を心がけてこれこれこういう動機からだから受け入れるべし」といった論調。これもいずれ突っ込んでおきたい。

追記3

「あたかも周知の事実であるかのように」は先回りの一種とも言えるか。整理が足りない。