国家の誇り

南京大虐殺しかり、慰安婦問題しかり、「あった」派「なかった」派、双方に声高さが目に付くちゅうかうっとうしいっちゅうか落ち着けよまったく。

「なかった」派の心理

そもそも日本の「無実」が証明されたからといって、それがなんだってんだろ。
真相究明の意義は、国同士・国民同士が同じ歴史認識の上に立って関係を構築して行けるという点に尽きるんじゃないの。
その視座に立って「無実ですよ」と主張するのは、別段おかしなことじゃない。けれども、ネット上で目にするそうした主張の大半は、相手国への悪口雑言揶揄嘲笑とセットなんだなこれが。要するに相手を「やっつけたい」だけにしか見えないわけ。
日本に贖罪を求める諸外国に対して溜飲を下げたいってんなら、実に下らねえ。それをもって「誇り」だ「愛国」だというなら、もっと下らねえ。
「誇り」「愛国心」なんて大義名分を掲げる御仁達。彼らが実際に欲しいのは別のものなのよね。自分のすり替えの心理に気付けない人間がこんなにも多いのかと思うと、オラもうなさけね〜。
なぜ相手をやっつけようとするのか、そこんところに問題の核心があると思うのだ。

「あった」派の心理

一方、「あった」派がなぜ執拗に「あった」と主張したがるのか、その心理も興味深い。
「なかった」派がとかく他国の悪口とセットになっているのに対して、「あった」派は自省という方向性を持っている分、罵倒めいた言葉は少ないけれども、何割かの人達の根っこにあるものは実は「なかった」派と同質なんじゃなかろうか。(これまた上述の「真相究明の意義」を踏まえての主張ならば、ケチを付ける気はない。)
自虐史観」なんて借り物の言葉で非難したところで、ことの本質には近付けない。「自虐史観」が根付いた原因とされる歴史的背景(歴史教育への他国の干渉など)も、所詮はきっかけに過ぎない。もっと重要なのは、それを受け入れるのみならず、頑なにその史観にしがみつく相当数の日本人の心理がどこから来るのかだ。「悪いことをした」という主張はあってもいい。だが、一部の「あった」派の人達の主張・剣幕は、もはや日本は「悪いことをした国でなければならない」かのようだ。
他国を罵倒するという方向に行かない分、目立ちはしないけれども、引っ掛かる。

共通点

どちら側であれ、一部の人達の声高さ頑なさには、カルト的なものを感じる。そう、もはやそれは信仰なのだ。それも歪んだ信仰。
「世界中から尊敬を集める偉大な日本」が捨てられないのが「なかった」派なら、
「過ちを認めて前進しようとするエライ日本」が捨てられないのが「あった」派。
どちらも、「国」という実体のないものを自分の支えとしてしがみ付いてしまった憐れな人達のように、私には見えて仕方がない。国なんて人間の集まりでしかないのにね。

余談・揶揄嘲笑

ネットを始めた当初、いわゆる「右」と言われる人達の暴力的な物言いの数々に驚き、うんざりし、次第に何が彼らをそうさせるのかと考えるようになった。
続いて目を引いたのは、「右」と「左」の敵対構図。「活発な議論」なんてものには程遠い、歪んだ情念の渦巻く世界は異様としか言いようがなかった。事実関係を論ずるのに、なぜこうまで憎悪の感情を持たねばならないのか、不思議でならなかった。
そこで考えたのは、彼らにとって、「あった」か「なかった」かはとても大切なことなのだということ。そして大切であることの理由は、実は愛国心でもなければ平和への希求でもなく、自分自身の支えを失いたくないからなのだと思い至った。
そう思い至ったのは多分10年かそれ以上も前のことだと思う。それを今になって表に出してみたくなったのは、Facebookやらツイッターやらによるものが大きい。政治に関するネット上での発言が目に飛び込んで来る頻度が格段に上がり、相変わらず揶揄嘲笑抜きに穏やかに政治を語れない人が多いのに苛立つことが増えている。
そういう鬱憤を一度吐き出しておこうと思って安倍政権のことを書こうと思って書き始めたのに、なかなかその話にたどり着かない。で、こんな内容になりました。

追記2017.12.29

4年以上も前に書いたこの記事を時折思い出してはモヤモヤしている。これって「どっちもどっち論」か?
遅ればせながら表明しておくが私は断然「あった」派である。但し、「あった」の裏付けばかりを探しては飛び付くといった結論ありきの姿勢にはなるまいとの自戒を意識するあまりどっちもどっち論とそしられても仕方がないような書き方になってしまった。これは拙かったと思う。