ヘイトスピーチとカウンター1

ヘイトスピーチ対策法案が参議院を通過。社民、生活が反対に回ったのには驚いたがそれはさておき。
2009年4月11日、埼玉県蕨市在特会による「カルデロン一家追放デモ」。
2009年12月4日、在特会・主権会会員らが京都朝鮮第一初級学校前で街宣(起訴→有罪判決)。
2013年2月9日、東京都新宿区新大久保で行動する保守系の団体がヘイトデモ。同日に「レイシストをしばき隊」がカウンター活動。

カウンターを見て思い出したこと

この「しばき隊」を映像で見た時、私は2000年前後の自分自身のネット生活を思い起こした。
当時SNSなんて言葉はなく(多分)、ネットでのコミュニケーションツールは掲示板が全盛。私自身、掲示板でのやり取りが楽しく、毎晩やりすぎるくらいにいくつもの掲示板に貼り付いていた。
そこで問題になるのが「掲示板荒らし」。嫌がらせを繰り返す常連荒らし、あるいは気まぐれでイタズラする者など、賑わっている掲示板ほどその手の輩も多い。
私はそれに対するスタンスを当初は決めかねていたが、徐々に「抗戦」タイプになっていった。自分が参加しているコミュニティを大事にしたいという思いや、理不尽な罵声を誰かが浴びせられているのを遠巻きに見ていてはいけないという思いからだったが、私以外にも黙ってないぞという人は複数おり、まあ結構はしたなくやっていた。
しかしそうやってドンパチやっていると、必ずと言っていいほど出るのが「どっちもどっち、やめて〜」という声。火が無駄に大きくならないよう気を付けてはいたが、やはり言い争いは目立つ。そして多くの人は、その言い争いの表面だけを見て「どっちもどっち」と無責任な評価を下す。「気にしなければいい」「無視すればいい」といった無神経なセリフも他人事だから言えるのだろう。
では理不尽な罵声を浴びた人の気持ちはどうなるのか。それに頓着しない「どっちもどっち」という言い草は本当に腹立たしかった。(「安全地帯から石を投げるような真似をするな」という知人の書き込みを見て、うまいことを言うものだと感心した。)
しかし「どっちもどっち」と見られないやり方を考えるべきではないか、荒らしとやり合う時はギャラリーの目も意識しようじゃないかというやり取りも、「抗戦」タイプの人達との間で交わされた。
そして、「抗戦」タイプにとってのもうひとつの苛立ちのタネは、その掲示板の「管理者」の対応だ。コミュニティの秩序を作るのは住人の役目だが、しかしそれでも収拾が付かずに管理者が注意を与える、発言を削除する、悪質投稿者の投稿を制限するといった対応をせざるを得ないこともある。しかし多くの掲示板では、そうした管理者の対応に問題があり、秩序を保つどころか荒らしの常駐を許し、時にはそれに対する抗議を抑え付ける傾向すらあった。悔しくてしょうがなかった。
私の経験は、ヘイトスピーチの被害を受けた人達や、カウンターの人達の体を張った行動に比べれば話にならないくらいチャチなものだ。だがヘイトの被害者、カウンター、ギャラリー、そして警察、それらの構図は本当によく似ている。(掲示板では被害者とカウンターの境界が時として曖昧という点では異なっているが。)
だからチンピラのように暴力的なカウンターの振る舞いを、私は複雑な気持ちで見ていた。
(つづく)
ヘイトスピーチとカウンター2
http://d.hatena.ne.jp/higeweb/20160515/1463281218