今江祥智の三部作といえば2

完結編「桜桃のみのるころ(さくらんぼのみのるころ)」

桜桃のみのるころ

桜桃のみのるころ

タイトルは今江氏が敬愛していたイブ・モンタンの歌う「さくらんぼの実る頃」からですな。(映画「紅の豚」の中でジーナ=加藤登紀子が歌ってもいる。)
1作目、2作目の画は長新太だが、これは宇野亜喜良
長新太が亡くなったのが2005年6月、この作品の連載開始(飛ぶ教室)が同年の秋。


舞台は前作の5年後といったところだろうか。
新太郎21歳、舞20歳。どうかしら。(25〜26歳と言ってもよいくらいにどちらも成熟してはいるのだが。)
対象年齢は15歳からにしとくか。
主人公は舞。祖父亡き後、祖父と二人で開いた小料理屋は舞が切り盛りしている。(祖父の師匠推薦の、腕の良い板前を雇っている。)
今作では祖父の幽霊が登場する。そして舞をはじめとする主要人物がタイムスリップする。
今江祥智は、「ファンタジー」と銘打たれない物語の中でも、登場人物にちょこっと不思議な体験をさせることがある。そうしたシーンの描き方がまた独特で、「スリル」「興奮」といったけれんみをとことん抑えて、なんとも現実感のある描写をする。
この作品では、登場人物はできごとの異常さへの驚きやら疑問やらはさておいて、スリップして来た現代(恐らく21世紀)の、目の前の料理に舌鼓を打つ。今江祥智は、食べ物の「おいしさ」の表現が滅法うまい。それも「美味しんぼ」のようなうんちくとはまったくちがうやり方で(あれはあれで嫌いではないけれど)。

 舞ははしを取ると、そえられた小皿のものをつけてそのハモノオトシとやらいうものを口にしてみた。
 冷たくてひきしまっていて、それでいて口の中に入れるとふんわり溶けるようにいただける。
 −お・い・し・い。
 思わず口からもらしていた。

といった描写の数々が、タイムスリップという突飛なできごとを、「日常」から切り離すことなく読ませてしまう。
ちなみに帯にはこう書かれている。
「おいしい マゲモノふぁんたじっくラブストーリー」
なにやらわからん。ホノオモユルの「学園ラブコメSFアクションコメディ(←コメが2つ)」とは多分無関係。


さて物語の最重要テーマ、新太郎と舞。
何年か江戸に「詰めて」いた新太郎が実家に戻り、舞と再会する。(そもそも舞台がどの地域を想定しているのかよくわからない。京からは遠いようなので江戸寄り、魚釣りの場面が少しあるので海に近い城下町のようではある。)
そこで二人が急接近。しません。
互いに気持ちを確かめたい気持ちはある。
ではなぜそうしないのか。
「できなかった」のではありません。
かといって「あえてしなかった」のでもありません。
ただ「しなかった」だけ。
そして「その時」が来たら、はじめて口にする。
ちなみにこの二人、2作目での出会いから3作目の完結まで、文字通り互いに「指一本」触れません。何かの拍子に指が触れたとか肩が当たったとか、それすらなし。


このシリーズ、第2作、第3作と徐々に文字が小さく、ページが多くなっている。今江祥智の大人向け小説には、物語が1本の道筋で語られるのではなく、あんなことこんなことがありましたというディティールの積み重ねでもって語られるものが少なくない。この「桜桃のみのるころ」は、その傾向が強い。
そしてこうした作品の常として、やはりネット上には「なんだかよくわからん」といった感想もちらほら。三部作の中では、感想の別れやすい作品ではあるかも知れない。「手に汗握る」というのとは程遠い。
私も正直「あれって一体なんだったんだろう」と、よく理解できなかったままの箇所がないではない。でもディティールがいいんだよ、ディティールが。物語のどの部分を切り取っても「おいしい」。そんなシリーズ三部作でありました。
第1作、第2作