土人発言を“育てた”のは誰?

やはりというか、「土人」「シナ人」発言の主を擁護する論調があちこちで目に留まる。
産経新聞の記事《「土人」発言招いた沖縄の異常空間》に代表される「どっちもどっち論」。
ため息が出る。
もちろん隊員の家族への危害をほのめかす物言いは論外だし、金網越しに小突くのも余計。(訂正:金網を叩いたりしていただけのようだ。機動隊員を小突いたら逮捕される。)(←と思ったら反対派が隊員を殴ろうとしている動画を見た。あれはダメだろ。で、逮捕されてない。)
で、「堪忍袋の緒が切れて言っちゃったんだよ可哀相だよ」って、おいおい。
まあちょっと気の毒な面はあるけど。ちょっとだけな。
でも堪忍袋の緒が切れたなら「バカアホ」でいいだろ。「いい加減にしろテメエ」でいいだろ。
そこで「土人」「シナ人」という単語が“口をついて出た”のはなぜ?


その場にいた反対派と暴言の主だけの問題として捉えてもダメだ。そもそもそうした言葉を発せしめる土壌は一体どのように醸成されたのか、そこに目を向けていない論評はまったく読むに値しない。


逆に言えば、隊員個人をしつこく糾弾しても、あまり意味はない。あの言葉を隊員の中に“育てた”のは、元を辿れば沖縄問題でよく言われる「構造的差別」であり、それを助長する安倍政治にほかならないのだから。
差別には必ず土壌がある。土壌に目を向けずに語ったところでことの本質は決して掴めないということを知るべきだ。