アニメ「あしたのジョー2」

GyaOで視聴。しか〜し、カーロスとの試合の回までまるまる見逃した。
久しぶりに観て気付いたのは、白木葉子役(田中エミ)がかなりの大根だということ。劇場版は檀ふみ……こっちの方が名演だったにちがいない。
でまあ、この物語の一番の謎といったら、もちろんあれですよね。
「なぜホセ・メンドーサダブルクロスカウンターをマスターしていたか。」
ちがうってば。

矢吹丈は死んだのか

野暮な話題ですが。
アニメ版がテレビ放映されていた頃、既に私の兄は結末を知っていた(原作を読んだのか人から聞いたのかは不明)。曰く「ジョーは死む」。
で、アニメのラストを観た私の感想。
「え、これ死んでんの? ヨクワカンナイ。」
子供でしたから。
それから年月を経て、ようやく原作を全巻読む機会を得たのは二十歳前後の頃。
やはり「死んだ」とは思えなかった。うまく説明できないが、「死」でもってドラマに付加価値を与えるような安易な手法には見えなかった。「美学」を表現しているとも思えなかった。しかし「生きている」と言い切るにもためらいを感じた。やはりあれは「燃え尽きた」としか言いようがないんじゃないか、と思った。
だがもし生か死かの二者択一でお前の解釈を言えと迫られたら「生きている」と答えるだろう。あるいは「死んではいない」と答えるだろう。
そしてWikipediaだ。
まず、ちばてつや

タイトルに「あした」と付くくらいだからジョーは死んではおらず、明日も夕日に向かって白木葉子と共に歩き出していると思う

続いて夏目房之介

ジョーの身体が次のページ方向を向いており、リングの線も同じように途切れずに向かっていることから明日があることを意味している

おまけ。これはどうでもいいな。

医学的な観点から論じると、疲労で死亡した場合、微笑むなどの顔の筋肉の運動や椅子に座った姿勢を保つようなことは不可能であるため、疲れて休んでいるだけに過ぎないと結論付けられる。

作者自身は、執筆当時は生きているかどうかを明確に決めて描いていなかった可能性はあると思う。しかし無意識のうちに夏目房之介が指摘するような描写をしたという推測もできる。
そして久方ぶりに観たアニメのラスト。
ゆっくりと瞼を閉じるジョー。異変に気付いて次々と立ち上がる観客達。帽子を取って祈るような仕草をするゴロマキ権藤、グラブを取り落とす葉子……おいおい殺すなよ。なんとも釈然としなかった。
ところが、だ。監督の出崎統は「ジョーはあの後旅に出た(のかも知れない)」という意味を込めて演出したと語っているらしい。ではゴロマキのあのポーズは? 単に「お疲れさん」と言ってるだけかい?