私は仕事場にいた。1階ではあったが経験したことのない大きな揺れ。しかし物が落ちたり倒れたりはなく、何もせずに揺れが収まるのを待った。収まってから外に出てみると周囲は騒然。といっても「いや〜揺れたねえハッハッハ」というノリ。まったく呑気なものだった。
以降、報道に青ざめたりネットで失言してへこんだり続報に滅入ったりしつつも、概ね普段通りに過ごしている。家族とごく近い親戚(殆どが関東在住)の無事は確認できた。実家が東北の知人もおり気掛かりだが「ご家族は無事でしたか」とも聞けずにいる。
自分や隣人の生活のちょっとした浮沈に一喜一憂して日々を暮らしている中(時には生き死にの問題も絡んで来るにせよ)、こういう死者数千数万という惨事には心が痛む前にまず呆気に取られる。
楽しいことばかりとは限らない、裏切りとかごまかしとか孤独とか怪我とか花粉症とか虫歯とか腰痛とか不作とか不漁とか失業とか貧困とか、そうしたうんざりさせられる事柄をも含む日々の暮らしを、何の前触れもなく丸ごと消し去ってしまうこの身も蓋もなさ。その人が積み重ねてきた昨日までの日々とは何の脈絡もなく断ち切られる生。
どう受け止めていいのか今もよくわからない。
原発関連の不穏な報道を見る度にズドンズドンとダメージを受けている。地震や津波の報道を見た時とはまるで感覚が違う。どちらが重大かという問題ではなく。
「放射能」「被曝」
そんな単語がリアルタイムで、しかも自分の住む横浜と陸続きの場所での出来事として発せられることに慄然とする。
「なぜか弁が開かない」「なぜか水位が上がらない」
決して飼い慣らすことのできない、目に見えない怪物の脈動。
原発のことをあれこれと考えないではいられない。
と、ここまで全部前置き。話がなかなか進まない。
本題は後日。(書くかなあ。)