よろしかったでしょうか考・その2

その1を書いたのはかれこれ3ヶ月前。
http://d.hatena.ne.jp/higeweb/20050730

「よろしかったでしょうか」という言葉遣いから、卑屈で卑劣で臆病で逃げ腰で無責任な心理を読み取り、人は(私は)怒りを覚えるのではなかろうか。

という結論はともかく、その中身の考察に今ひとつ手応えが感じられなかった。
こんな説明ではどうかとふと思い付いた。


店員とは「やり取りの進行役」である。取り引きを進行するのも完結させるのも、店員の舵取りによってなされるということだ。
取り引きのルールは店側の定めるものだから、金銭のやり取りという点においては客が上位であっても、そこに至るやり取りでは店員が上位にあるわけだ。店のルールに従わなければ、基本的に客は買い物ができない。
「主導権は店員にある」というのが接客の難しいところで、その「主導権」を引き受けるのを拒否するところから問題が生じる。
つまり「よろしかったでしょうか」という言葉によって、店員は自分を下位に追いやり、相手を立てているつもりになっているのではないだろうか。しかしそれは同時に、進行という役割、いや「責任」を放棄し、客におっ被せてもいるわけだ。
「よろしいでしょうか」という言葉には、話を進めよう、完結させようという<意思>が感じられる。それゆえ反発への恐れも生じる。だが「よろしかったでしょうか」という言葉は、「私」の判断によりことを進めるはずのものを、あたかも既に何者かによって決められた事項であるかのような響きを持つ。コミュニケーションの取り方として卑怯と言うほかはない。


「卑屈」「卑怯」「逃げ腰」「無責任」といった言葉の説明になっているのではなかろうか。
でも相変わらずわかりにくい。もっとうまく説明できないか。ちなみに「責任逃れ」という指摘はよそにも見られ、別段私が新しい発見をしたわけではない。ただ、自分の不快感の、わかりやすい説明を見つけたいのだ。